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日什大正師

ご誕生

  •  開祖日什大正師は、鎌倉時代後期の正和3年(1314)4月28日、奥州会津(福島県会津若松市)に父・石堂太郎覚知、母・清玉(蘆名四郎盛宗の子女)の間に武士の子として誕生されました。

     幼名を玉千代丸、長じて権太夫国重と名乗られます。3歳にして文字を読み、6歳には四書五経を素読されたと伝わっています。

出家と比叡山

  •  父母の深い愛情に育まれ成長されましたが、15歳の時に相次いで両親がお亡くなりになりました。この悲しい出来事によって大正師に仏道を求める志が芽生え、19歳になって比叡山に登り、慈遍僧正の弟子となって出家、「玄妙」と名乗られました。

     それから20年、勉学の成果はひときわ抜きん出て、38歳の時には三千人の学僧の学頭となり、「玄妙能化」と称されました。

     さらに、20年の歳月が流れ、天台教学の探求と学徒養成の日々を重ねるものの、仏教のあり方についての疑問は日を追うごとに大きく広がっていきました。

改宗

  •  58歳になられた大正師は、故郷会津に帰ると、城主蘆名氏に請われて羽黒山東光寺の住職となり、玄妙能化の徳を慕って集まる大勢の学徒の指導にあたられました。

     こうして年月が経ち、66歳になられたある時、一人の若い学僧が預けていった日蓮大聖人の御書『開目抄』『如説修行鈔』という、いまだかつて見聞きしたことのない書物を、果たしていかなる内容かと一気に読み進むうちに、大正師の目は輝き、心はおどりました。思えば仏道を志してよりこの方、長年心の中にあった大きな疑問が、跡形もなく消え去っていくのでした。「これこそ私の求めていた、正しいみ仏の教えである」と確信された大正師は、直ちに日蓮大聖人を師と仰ぎ、み教えを正しくそのまま相承され、名も「日什」を改められました。

     そして、すぐさま羽黒山を下り、下総真間(千葉県市原市)の弘法寺を訪ねて改宗の旨を告げると、下総中山(千葉県市川市)の法華経寺にこもって日蓮大聖人の御書を拝すること1年余り、大正師の信念はいよいよ強固なものとなって、不惜身命の布教を誓われたのでした。

布教活動

  •  永徳元年(1381)、大正師は公家の奏聞を志し、関白・二条良基と対面し、他宗を遠ざけて国中が法華経を信仰することを主張されます。大正師のあまりに強い訴えはすぐさま受け入れらることはありませんでしたが、大正師の博識と高徳に感心された関白の計らいにより「洛中弘法の綸旨」と「二位僧都」の官位を賜わりました。

     その後も公家への奏聞にとどまらず、関東管領・足利義満など時の権力者である武家に対しても恐れることなく諌暁を繰り返され、法華経とお題目の信仰を弘めようと東奔西走されます。さらにこの間、各地に諸寺を建立し、多くの子弟を教化育成されました。

門流の独立

  •  ところが、こうした大正師の精力的な布教活動とは裏はらに、当時の日蓮大聖人門下の人々は、法華経のみ教えを弘めるという目的を忘れ、名誉や法脈の優劣に心をうばわれ争い合うという、誠に情けないありさまでした。

     折しも、最愛の弟子・日妙上人を亡くされた大正師は、その一周忌に『諷誦章』を認めて、宗旨と修行の方軌を示され、その裏には「置文」を書かれて「直ちに日什は仰いで、日蓮大聖人に帰する処なり」と門下との訣別と日什門流の独立を宣言されたのでした。

妙満寺創建

  •  康応元年(1389)、京都室町六条坊門(現在の烏丸五条あたり)の草庵を「妙塔山妙満寺」の号を立てて根本道場とされました。

     老齢をかえりみず、ただひたすらに法華経と日蓮大聖人のご精神を弘めることに明け暮れた大正師も、78歳のご高齢になられ、帝都弘通の思いを京の空に残しつつ、会津帰郷の旅に立たれました。

ご入寂

  •  翌年2月28日、会津 妙法寺において唱題のうちに泰然とご入寂されました。世寿79歳、ご高齢をかえりみず布教に専念された、法悦に満ちたご生涯でした。

     私たち顕本法華宗は、お釈迦さまと宗祖日蓮大聖人、開祖日什大正師を三聖と仰ぎ尊びます。

     私たちの願いは、お釈迦さまがお説きになった法華経と、宗祖が弘められたお題目を正しく受け継ぎ、開祖を信仰上のお手本として後世へ伝えていくことなのです。

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