俳諧(俳句)の祖といわれる松永貞徳(1571~1653)が造営した枯山水の庭苑であり、清水寺の「月の庭」、北野天満宮の「花の庭」とともに、名庭「雪月花の三庭苑」と並び称されています。
三庭苑を作庭したと伝えられる松永貞徳は日本の古典に精通し、歌人として連歌を学んだのち、俳諧という新しい分野を開拓した文学者であり、多くの文化的遺産を遺しました。
妙満寺の塔頭 成就院の時の住職・日如上人が貞徳の門下であった縁から、貞徳はこの「雪の庭」を造営。寛永6年(1629)11月25日、初となる正式俳諧興行として「雪の会」が妙満寺にて催されました。これにより俳諧は、それまでの連歌から独立した文芸として認められるところとなり、後に松尾芭蕉や与謝蕪村などを輩出して確立し、今日に至っています。妙満寺は俳諧(俳句)発祥の地といえます。
昭和43年に妙満寺が中京区の寺町二条からこの岩倉の地に遷堂した際、石組みをそのままに妙満寺本坊の庭苑として移築されました。
その名の通り、冠雪の比叡山を借景とした眺望が最も美しい庭です。
江戸時代、寺町二条の妙満寺は雪景色を借景とした「雪の庭」、東山の清水寺は月見で有名な「月の庭」、そして北野松原の北野天満宮は梅花鑑賞の「花の庭」と呼ばれる庭苑を、それぞれが成就院(坊)という塔頭寺院に有しており、京都洛中の「雪月花の三庭苑」として名を馳せました。
雪月花とは、中国の白居易の漢詩「寄殷協律」の一節に詠まれた「雪月花時最憶君(雪月花のとき、最も君を憶ふ)」からの語であり、それが日本に伝わり我が国の美意識に大きな影響を与えました。
やがて北野天満宮成就坊が廃寺となり「花の庭」は永らく失われていましたが、令和4年、北野天満宮に「花の庭」が復興され、令和再興「雪月花の三庭苑」として新たな節目を迎えることとなりました。
妙満寺の庭より比叡の雪を眺め、清水寺に立ち東山を背景に月を観、北野の神域で梅花を愛でる、その日本人の愛した自然の美を体現した三庭苑が京都の新たな魅力を発信いたします。
「雪の庭」は、妙満寺が京都寺町から岩倉へ遷堂した際、石組みをそのままに移築され、忠実に再現されました。
しかし、岩倉遷堂から50年の月日が経過し、長年懸案となっていた各所の傷みや老朽化、植生の変遷や時折に加えられた石灯籠などによって生じた庭園全体のバランスの是正などに対応し、さらには近年増加する豪雨に対する排水設備等の充足を図るため、令和4年1月、「令和の改修」として大規模な改修事業が行われました。
松永貞徳が作庭した既存の石組みはそのままに、借景となる比叡山から庭・本坊の建物が一体となった「庭屋一如」の松永貞徳の世界観をより再現した庭園へと生まれ変わった姿をご覧ください。
令和4年1月から行われていた「『雪の庭』令和の改修」が無事に完了し、3月17日、大川日仰貫首導師のもと円成奉告法要が執り行われました。三庭苑「月の庭」・「花の庭」を有する清水寺様と北野天満宮様それぞれの関係者が臨席され、法要後は改修工事を施工した植芳造園様による説明を交えながら、内覧会が行われました。